「死産児のように自由でありたい」 - E.M.シオラン『生誕の災厄』

最近の私のもっぱらの関心事のひとつである反出生主義について調べていたとき、エミール・シオランの名を知った。

彼の著作『生誕の災厄』。その直球なタイトルに興味をひかれ、読書は得意ではないが通して読んでみた。以下で、印象に残った、あるいは共感した文章を一部紹介する。

 

p.10 あらゆる罪を犯した。父親となる罪だけは除いて。

p.15 私は自由でありたい。狂気と紛うまでも自由でありたい。死産児のように自由でありたい。

p.27 生れるという事実のなかには、はなはだしい必然性の欠如が見られ、平生より少しでも長くそのことに思いを凝らせば、どういう反応を示したらいいのか分らなくなったすえ、私たちの表情は馬鹿のような薄笑いに固定してしまう。

p.68 自然の犯した大きな過ちは、一種類のものの制覇に甘んずることをしなかった点にある。植物のそばに置けば、一切が時を得ない不出来なものと見える。太陽は最初の昆虫が出現したとき、不満の意を表わすべきだったし、チンパンジーの闖入に際しては、さっさと引越してしまうべきだった。

 

「無意識は祖国である。意識は流刑だ」

p.132 生誕とは不吉な、少なくとも都合のよくない事件だと認めれば、一切がみごとに説明できる。だが、この見解を認めようとしないかぎり、人は理解不可能なものを甘受するか、万人のひそみに倣って、ぺてんをやってのけるかせねばならない。

p.137 存在するとは、その逆と同じくらい、いや冗談ではない、その逆よりもはるかに了解しにくい一状態である。

p.143 幼虫の身分に固執するべきだった。進化を拒み、未完成に踏みとどまり、諸元素の午睡を楽しみ、胎児の恍惚に包まれて、静謐のうちに滅び去ってゆくべきであった。

p.160 二度と絶たれない眠りという観念を、私たちは怖れずに受け入れることができる。反対に、永遠の目覚めは(もし霊魂不滅が想定しうるものとすれば、まさにこれであろう)、私たちを恐怖のどん底に叩き込む。

無意識は祖国である。意識は流刑だ。

 

「この世に出てくるとは、手錠をかけられることだ」

p.276 生誕と鉄鎖とは同義語である。この世に出てくるとは、手錠をかけられることだ。

同 出生しないということは、議論の余地なく、ありうべき最善の様式だ。不幸にしてそれは、誰の手にも届かぬところにある。

 

 

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それにしても、「生誕」に関してこれだけ言っておいて親を責めるような記述が見当たらないのが不思議だった。本当に何とも思っていないのか、私が見落としているだけなのかどうなのか。

生誕の災厄

生誕の災厄